民生委員制度の源は、岡山県に誕生した「済世顧問」制度と言われています。
その後、大阪で始まり全国的に制度化された「方面委員」制度が、現在の民生委員制度の前身とされています。
ここでは、これまで100年に渡って育まれてきた「民生委員制度」の歴史をご紹介します。下記ページ内リンクメニューから、ご覧になりたい項目をお選びください。
なお、千葉県民生委員児童委員制度創設70周年記念冊子と全民児連発行資料をもとに、記載しています。
制度の歴史
民生委員制度の源 大正5(1917)年済世顧問制度の誕生
第一次世界大戦は、戦時景気をもたらしましたが、その末期には物価の高騰から社会不安の波が押し寄せていました。
大正5年5月、宮中で開催された地方長官会議の場で、岡山県・笠井信一(かさい しんいち)知事は、大正天皇より「県下の貧民の状況はいかに」との御下問を受けました。
その後、県内の生活困窮者の実情を調査すると、県民の一割が悲惨な生活状態であることが判明しました。この事態の重大さに、笠井知事はドイツのエルバーフェルト市(現在のヴッペルタール市)とライプチヒ市で行われていた「救貧委員制度」を参考に、大正6年5月12日に「済世顧問設置規程」を公布しました。
これが、現在の民生委員制度の源と言われる「済世顧問制度」の始まりです。同年末の顧問数は65名でした。また、この済世顧問は、防貧活動がその使命とし、生活困窮者に正常な社会生活を営み得る水準にまで復元(自立)させることが仕事でした。そのため、単に物資の提供によるものだけではなく、地域の篤志家が相談に応じるという形を取りました。活動には、特段制約を設けず、顧問の自主活動に委ねたこともあり、地域ごとに多彩な施策が見られたといいます。
現在では、「済世顧問制度」が誕生した「5月12日」を「民生委員の日」と定め、全国一斉にPR活動や啓発活動に取り組んでいます。
区域 : 市町村行政区域
配置 : 岡山市15名、町村1名
選定・推薦等 :
区域内の有力者を市長の推薦により知事が嘱託(委嘱)。ただし、適任者がいなければ空席とされ人物本位の人選を行った。名誉職。
民生委員制度の前身 大正7(1918)年方面委員制度の誕生
岡山県で「済世顧問制度」が誕生した翌大正7年、大阪府では林市蔵・大阪府知事(当時)が、社会事業の権威であった小河滋次郎(おがわ しげじろう)博士の協力を得て「方面委員制度」が誕生しました。(10月7日大阪府告示第255号をもって「方面委員規程」を公布)
この頃、第一次世界大戦後による好景気がもたらされた一方、貧富の差が拡大し、大正7年(1918年)8月には富山県で高騰する米価の廉売を求める「米騒動」が起きました。この富山県で発生した米騒動は大阪を含め全国に波及し、社会不安が高まっていました。
こうした状況の中、時の大阪府知事であった林市蔵(はやし いちぞう)氏は、平素から住民の生活実態を丹念に調査し、その良き相談相手となって生活指導に当たるような委員制度の必要性を痛感していました。
そこで、当時大阪府の最高嘱託であり、社会事業の権威であった小河滋次郎博士に依頼して、ドイツ・イギリス・アメリカの救済委員や中国の審戸、江戸時代以来の五人組、岡山の済世顧問などの各制度を詳細に研究調査し成案化したのが「方面委員規程」です。
この制度の特徴は、済世顧問制度と同様、防貧を目的としていますが、より社会調査(生活状態・要援護者調査等)を重視したものでした。また、各方面に1名の常務委員(現・地区会長)を置いたほか、その連合会である常務委員連合会を設置するなど、組織だった活動を行っています。
方面委員の「方面」とは「地域」のことを指しています。各委員は、それぞれが一定の区域を担当し、訪問調査活動に重点を置き、担当区域内の住民の生活実態の把握に努めました。この活動を通して、具体的な救済事業の要望を探り出したり、生活困窮等で支援が必要な人は迅速に救済機関につなぐという役割を担っていました。
こうした活動は、現在においても民生委員活動の中心として引き継がれています。
区域・配置等 :
小学校通学区域をもって1方面とし、大阪市内16方面を設置。1方面に約10名を嘱託(委嘱)。各方面に事務所を設置。
選定・推薦等 :
関係市区町村吏員、警察官吏、学校関係者、有志者及び社会事業関係者の中より、知事が嘱託。名誉職。
昭和2(1927)年~昭和11(1936)年千葉県に方面委員制度誕生!
全国統一制度へ
●昭和2(1927)年
千葉県に方面委員制度誕生
千葉県では、昭和2年7月8日に「千葉県方面委員規程」が公布され、方面委員制度が誕生しました。同年9月に、方面委員の区域を1市16町と定め、同年10月・11月に知事が160名を委嘱しました。この時の任期は2年でした。
1市16町は次の通り。千葉市4方面、山武郡東金町、市原郡五井町、海上郡銚子町、東葛飾郡市川町、匝瑳郡八日市場町、印旛郡成田町、夷隅郡勝浦町、安房郡館山町、香取郡佐原町、千葉郡津田沼町、海上郡本銚子町、東葛飾郡野田町、君津郡木更津町、東葛飾郡船橋町、安房郡北条町、長生郡茂原町(※千葉市以外は各町1方面)
●昭和4(1929)年
救護法の公布と、方面委員による請願・上奏
昭和4(1929)年、「救護法」が公布されました。
現在の生活保護制度の前身と言える「救護法」は、老衰や疾病、貧困等のために生活ができない者を救護するというもので、対象者と救護の種類を拡大し、公的な救済義務や(市町村・道府県・国の)費用負担も明確にしました。この実施は、市町村の事務とされましたが、補助機関として救護委員が置かれることになり、方面委員が兼任することになりました。
この救護法は、公布されたものの、財政難のためになかなか施行には至りませんでした。万策尽きた昭和6(1931)年2月16日、全国の方面委員代表者1,116名が連署した「救護法実施請願ノ表」を上奏するに至ります。自らの辞表を胸に上奏に及んだ強い思いが実り、事態は急転、昭和7(1932)年1月より関係者の悲願だった救護法が実施されることになりました。
なお、千葉県ではこの救護法の制定に伴い、救護委員を兼任する方面委員の定数を1,071名としました。
(写真は、上奏を前に皇居前に整列した全国の方面委員代表)
●昭和11(1936)年
方面委員令公布、全国統一の制度へ
昭和11年、「方面委員令」が公布され、初めて全国一律的な基準が設けられました。設置主体は、道府県で任期は4年。名誉職とされ、その職務は担当区域内の実態調査や生活困窮者の救護及びその自立指導等とされました。
すでに、昭和3年時点では、全府県に方面委員又はそれに類する制度が設立されていましたが、地方の任意制度であったため委嘱方法や任期等にバラつきがありました。
昭和21(1946)年~民生委員令(法)公布 児童委員誕生
●昭和21(1946)年
民生委員令公布「方面委員」から「民生委員」へ
戦後の苦難の時代を経て、経済成長とともに増大する福祉ニーズに対応した各種制度が整備され、委員活動が広がっていきました。
それまでの方面委員制度は、生活困窮者等への指導的性格が強かったですが、この民生委員法では一般住民への生活指導面も含め、より広範に民生全般に関する国の諸施策の推進・協力機関とされました。
この時、「方面委員令」は廃止され、その名称も「民生委員」へと改称されました。
また、委員の選考・委嘱方法についても、推薦委員会の設置や、都道府県知事から厚生大臣へと委嘱者の変更等がなされました。任期は2年とされました。民生委員公布時の県内委嘱者は3,078名(男:2,401、女677名)でした。
同年、生活保護法が公布(救護法は廃止)され、民生委員は補助機関として位置付けられました。
●昭和23(1948)年
民生委員法公布・児童福祉法施行
それまでの勅令という形式から、この時から国会の議決を経た法制度となりました(民生委員令は廃止)。任期は3年。
民生委員になるための資格要件や職務上の信条の明示、指導訓練に関する規定等を設けられました。
また、児童福祉法の制定(公布は昭和22年、施行は23年)により、民生委員は児童委員を兼務することになりました。
※勅令:旧憲法下、議会を経ず、天皇によって発せられた命令。今日の内閣の政令にあたる。
●昭和25(1950)年
生活保護法改正・社会福祉協議会誕生
昭和25年、生活保護法上の民生委員の位置づけは補助機関から協力機関に変更されました。
昭和26年(1951)、社会福祉事業法が公布されました。戦後、社会福祉団体の再編が進められ、全国から市町村段階までの連絡組織である社会福祉協議会(社協)が誕生しました。民生委員はその設立に中心的な役割を果たしたとされています。
●昭和27(1952)年
世帯更生運動の実施
昭和27年の全国民生委員大会で、救貧から防貧活動を強化し、一人の民生委員が一世帯ずつでも更生させていこうと提案・決議され、全国的に世帯更生運動(しあわせを高める運動)が実施されました。
この運動を契機に、昭和30年には民生委員と社会福祉協議会が協働して低所得者に貸付を行う、「世帯更生資金貸付」(現・生活福祉資金)制度が導入されました。
●昭和28(1953)年
民生委員法の改正
それまで、民生委員の任期は決まっていても委嘱日がバラバラで事務の煩雑化が懸案事項でした。そこで、この改正により中途委嘱者の任期は「前任者の残任期間」とされ、この年の12月から「一斉改選」が始まりました。
●昭和49(1974)年
孤独死老人ゼロ運動
全国民生委員児童委員協議会では、昭和49年に全国一斉に「孤独死老人ゼロ運動」を実施し、近隣住民による日常的協力体制の確立や、孤立する高齢者への福祉サービスの充実などを目標に、老人クラブや住民組織と協力し、食事サービスや茶話会、ひと声運動などの実施を進めました。
この運動の一環として、全国10の県・指定都市民児協関係者による「孤独死老人追跡調査」が実施され、把握された816人中、6人に1人は誰にも看取られておらず、10人中2人は死後2日以上経過して発見されていました。また816人の生活保護受給率は41.2%で、国民全体の保護率1.3%の実に40倍に上るという厳しい現実が明らかになりました。
この結果は、広く関係者に衝撃を与え、公的な福祉サービスの拡充とともに、地域から高齢者を孤立させない取り組みの推進につながり、それは今日まで続いています。
大正6(1917)年~平成29(2017)年制度と事業の年表
民生委員制度の年表を紹介しています。オレンジの項目が千葉県内の項目になります。
西暦(年号) | 関連事項 |
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1917年 (大正6年) |
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1918年 (大正7年) |
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1927年 (昭和2年) |
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1928年 (昭和3年) |
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1930年 (昭和5年) |
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1931年 (昭和6年) |
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1932年 (昭和7年) |
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1936年 (昭和11年) |
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1938年 (昭和13年) |
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1941年 (昭和16年) |
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1946年 (昭和21年) |
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1947年 (昭和22年) |
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1948年 (昭和23年) |
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1949年 (昭和24年) |
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1951年 (昭和26年) |
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1952年 (昭和27年) |
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1955年 (昭和30年) |
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1960年 (昭和35年) |
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1961年 (昭和36年) |
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1965年 (昭和40年) |
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1966年 (昭和41年) |
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1968年 (昭和43年) |
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1969年 (昭和44年) |
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1970年 (昭和45年) |
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1971年 (昭和46年) |
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1972年 (昭和47年) |
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1973年 (昭和48年) |
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1974年 (昭和49年) |
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1976年 (昭和51年) |
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1977年 (昭和52年) |
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1979年 (昭和54年) |
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1980年 (昭和55年) |
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1982年 (昭和57年) |
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1984年 (昭和59年) |
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1985年 (昭和60年) |
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1990年 (平成2年) |
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1992年 (平成4年) |
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1994年 (平成6年) |
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1995年 (平成7年) |
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1997年 (平成9年) |
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1999年 (平成11年) |
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2000年 (平成12年) |
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2001年 (平成13年) |
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2006年 (平成18年) |
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2007年 (平成19年) |
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2008年 (平成20年) |
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2009年 (平成21年) |
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2013年 (平成25年) |
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2014年 (平成26年) |
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2016年 (平成28年) |
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2017年 (平成29年) |
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※参考及び一部抜粋 : 千葉県民生委員児童委員制度創設70周年記念冊子、全民児連HP他